吸収と表現の毎日

人生の余白を文字と旅で埋めていきたい

大学にて.

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年に一度か二度、母校の教壇に上がって10年が経つ。過去には、月に一度、4年生向けに塾をしていた時期もあって学生のことはとても大切にしている。

毎年、学生の雰囲気は少しずつ異なり、相変わらず我が母校は女性が元気で、男性は体育会所属でもかなりおとなしめ。だけど、今年はなんだか様子がおかしかった。学生が大人に対して求めていることが対話や世界の拡張ではなく、一問一答で用意されている「正解」だった。質問されたことに対して(そもそも質問の意図が全く読めないような質問についてこちらがまず紐解いて行くのだけど)、対話を重ねて話がひと段落したところで、「つまり○○ということが正解ですか」と必ず聞いてくる学生がいて、対話のなかで紡ぎだされたいろいろな何かをすっ飛ばして、その「つまり」はどこにつながっていくんだろうと、正直なところ母校の今を少し憂いた。あなたの正解と私の正解はたぶん違うよと言っても、伝わらない。時間が経つに連れて、この一連の流れが根本的に賢くないやりとりに思えて、妄想ドローンにのった自分が天井あたりで溜息をつき、放棄したい衝動にもかられたけれどそれは抑えた。不思議で不躾な質問を繰り返すその学生は最後、「ありがとうございました!」と爽やかに、そして丁寧に頭を下げて教室から出て行った。彼女の中にある何らかのパラドックスが心配でしょうがない。

来年はどうだろう、と思いつつも、でもなんか来年まで待てない気がして、少し動き始めてみた。昔のように何でも一人でやるのはやめて、周囲に声をかけてみたけどなかなか腰が重い、始めるまでに時間と懸念の多い人の数たるや。嘆かわしいね。官僚になる人はほぼ皆無でも、地方公務員になる人がとても多い学校だから、彼女達の存在や生き方や思考は人々の生活にそれなりに影響を与えると私は拡大解釈する。

考え抜くことや答えのないものに仮説を立てて人生を通じて自分なりの解に出会う楽しみを持って欲しい。その過程で、ディスカッションしたり共鳴したりすることはたくさんあるけど、結局、算数のように解答なんてないんだよなあ。誰かが丸をつけても、同じ解答にバツをされることもあり、それが人生。