『「市民」とは誰か』読了.
大学時代ワケアッテほぼ毎日読んでいた憲法を久しぶりに読んだ。そこには「国民」という言葉が連なるが「市民」とは出てこない。市民とは誰なのか、大阪市民とか横浜市民とか、そうゆうことではなくて市民とは誰なのか。
本の副題に"戦後民主主義を問いなおす"って書いてあるけれど、そこはあまり気にせず。この本のメインは著者も巻末に
とりわけ「市民」という概念は、すでに繰り返し述べてきたように、ヨーロッパの歴史や思想史とは容易に切り離せないのである。
と書いている通り、「市民」の語源を辿るような部分が前面に来ている。だからそのような点においての史実的な流れはよくわかったし、日本における輸入学問的な話も辿れたわけなんだけど、結論から言って、私の「市民とは誰なのか」という疑問は何ら解決されなかった。全くずれた話になるけれど、たぶん数日前に生まれたこどもでさえ日本の管轄する役所に届け出を出せば国民となる、実情がどうのこうのというよりそれはキメの問題と捉える。一方で市民というのは、どうであるか、私はここを深堀りしていきたい。本当は国民の定義から考えたいのだけど、泥沼なので、市民概念から。
嗚呼、自治体と組んで多様性豊かな市民概念やルールやらをデザインできたら面白いのに。そうしたらさあ、きっといろんなことがFlourishする予感。もちろんこの島国のリスクに対する恐怖心の強さは知っている、とはいえ21世紀です。
さて、乱暴な引用ではあるがあえてこの本で一番妄想が止まらなくなったところを。前後の文脈省きますが、ご興味ある方はぜひ読んで頂ければ幸いです。
そうすると、近代を形づくってきたふたつの大きな柱には相互に矛盾があったということになる。国民としての「わたし」は、「祖国のために死ぬ」べきことをいわれる。一方、市民としての「わたし」は、「祖国のために死んではならない」といわれる。この矛盾である。
どうですか、じわじわきた方がいたらぜひ国民・市民論をしましょう。
World Values Surveyという調査も面白いのでぜひ。