吸収と表現の毎日

人生の余白を文字と旅で埋めていきたい

『そして、暮らしは共同体になる』読了.

そして、暮らしは共同体になる。

そして、暮らしは共同体になる。

 

「共同」やら、「共有」やらが取り扱われることの多いこの時代。

「僕らのコーポラティヴハウス計画!」などと声高に仲間達と騒ぎ合っていたのは2007年頃だったと思う。ほぼ毎日、連絡を取り合い夢やら希望やら週末に迫ってやってくるイベントの企画実施に必死だったあの頃、私達は大人になったら互いの家族を連れ寄ってみんなで中庭のあるヨーロッパみたいな集合住宅を建てて住もうよ、そこでこども達が兄弟みたいに育つとか、BBQするとか素敵だよねなんて言っていた。実際に物件を見て回ったり、紙に間取りを書いたり、それっぽい海外の本なんて漁ったりして結構本気だった。10年以上が経って、変わらず仲良しではあるけれど、それぞれの人生が多様な方向に進化した今、あの頃の濃い関係値は確実に薄らいだ。一方、コーポラティヴハウスみたいな考え方は世の中でぐんと存在感を増し、人々はつながりや絆や”ご近所”などの新概念を形成している。

2008年あたりから「友達とシェアハウスしています」という友達が出て来て、「へえ海外の学生みたいでいいね、具体的にライフスタイルのルールはどうしているの」なんて聞いたりして、私自身は実家暮らしで愉快な他人事として聞いていたものの、日本も変わったものだなと好意的に感じていた。2010年あたりから今度は「シェアハウスに住んでいます」みたいな友達が急激に増え、青山にあるそこにお邪魔したときのリビングに嫉妬した。広いし、家具も良いし、夜にみんなでソファに座って映画が見れそうだし、朝からでもパーティーが出来そうだった。

旧知の友人達と同じ釜の飯を食う的に一つ屋根の下で暮らすことと、見ず知らずの誰かさんとリビングやキッチンを共有しながら暮らすのとでは同じ「シェアハウス」でもだいぶ違うと思ったけれど、後者はハッシュタグ時代の到来を予知しているというか、共通項でつながっていける和の時代の到来でもいうか。今、振り返ればそんな風にも思える。

日本のなかでも都市型設計になっているエリアは、リビングと言っても「12畳、わあ広い!」(もちろん経済力と相対関係)みたいな不動産事情なわけで、そのような都会でIKEACostcoがどうやってワークするのでしょう?とも思うのだけれど、きっとこの「共同」やら「共有」やらが今後はこれらの課題をもっと紐解いていってくれる気がする。玄関から入らない北欧サイズのソファをベランダ側から搬入したり(経験済)、Costcoで買いすぎたパンを小分けにして冷凍したり(経験済)そうやって解決してきた何かが、これからはもっと別の目的と手法をもって解決されていくのかもしれない。このマンションの1階はみんながつかえるリビングにしてしまいましょうとなれば1階にどかんとソファを置けるし、パンはシェアすればいいよね(アレ?生協でいいって話?でも生協だと生活感・ドメスティック感がすごいからCostcoっていうのがCostcoファンの潜在的意識なのだと思う)。パンについては時間的解決を解にしていたことが空間的解決になるのは魅力的、口に入れるものって出来上がりの瞬間が1番美味しいというケースが多いから。1番美味しいタイミングにみんなで分けられるなら、保存についての知恵は歴史的なもの(醸造業その他)だけをのこし、近現代的な技術(保存料や添加物)を淘汰できそうだから。

しかし、SHAREが進めば進むほど、「私だけの場」が研ぎ澄まされていく印象も持つ。シェアハウスにおける個々の私的空間はより多様な進化を遂げそうだし、今やみんな片手におさまる「私だけの場」を、移動中も就寝中も食事中も持っている。実空間と同じように鍵をかけて守っているのはプライバシーよりも、「自分以外の入り込まない”私だけの場”がある」という心持ちなのかもしれない。という解釈もまた私だけのものかもしれない。

 

などと、書籍の感想を全く書きそびれてしまったけれど、上記の思考をつい振り返ってしまうような一冊だったということです。久しぶりに頭のなかで図になっていることを文章化してみました。

コルコヴァード

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