吸収と表現の毎日

人生の余白を文字と旅で埋めていきたい

『リベラルアーツの学び方』読了.

 方法論が嫌い。「~な方法」や「~の仕方」みたいなものは殆ど読まない。この本はつい装丁と「リベラルアーツ」と表示された帯の改行が気になって手に取ってしまった。

ある友人が、東京大学には教養を学ぶために設定された期間があり、これが非常に知的欲求を満たしてくれると語っていた。私はその言葉が凄く気に入っている。教養を学ぶための時間に知的欲求が満たされる環境というのはこれ以上なく豊かというか、木にたわわに実っていく収穫物が思い浮かぶ。実際に、あの大学は"進振り"と呼ばれるXデーまで、色々な学部を見比べ熟考し、または入学前から思い馳せていた学部にまっしぐらに、また或いは、文系で入学したにも関わらず思うことあって理系に進学したりなど、みんな教養期間の間に色々な答えを見出し、友人を観察しているだけで愉しかった。

私自身、自分の通う大学で法学部に属していたけれど1年生のときは、フルで授業を組み込み、他学部の授業をたくさん受講して、それでも時間が余るときは他の大学に潜ったりしていた。教育学、国際政治学犯罪心理学、古代数学文化人類学などどの授業をとっても面白く、潜った授業でつい授業後に教授と話し込んで3回目、「ところで君はどこの学部」と言われ、教授は予想外の私の告白に大笑いして喜んでくれた。大学ってそうゆうことが許される不思議な場所だった。特に法学部にいると自分のなかに積み重ねなければいけないものがどんどん専門的に深くなっていって、さらには総論を学んだ際に支持した先生の基本書の考え方から反れないように基本書を選んでいかないと自分の(正解に至る)論理形成に破たんが起きるという、「もう、なんだかなあ。これ以外にも論理展開のパターンがそろそろ生まれても、生んでもいいんじゃないか」と思う部分が強かった。

この本の著者は、奇遇にも裁判官を経て法科大学院の先生をされている方だった。彼はこう語っている。
「(前略)結局のところ、最後に人を動かすのは、たとえばそのような、その人に染み付き、その血の中まで流れ込んだ思想、価値観、そうした意味での教養ではないでしょうか」

私もそう思う。特に、"染み付いた"のところ。教養とはこつこつと積んでゆく類のものであって今日日突然にぽーんと自分を大きくしてくれるものではけしてない。学校で学べるだけのものでもないし、社会だけで学べるものでもないし。

ちなみに、この本自体は30分弱でさーっと読めます。後半はほぼ書籍の紹介です。