吸収と表現の毎日

人生の余白を文字と旅で埋めていきたい

生きるということ.

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2月8日は叔父の命日。胃癌になって治療の甲斐なく28歳で死んでしまい、今年で30年になる。今、生きていたらきっと私の相談にたくさん乗ってくれる頼れる叔父だったと思う。阿部寛を優しくした感じの人だった。

1960年チリ津波宮城県を襲ったとき、石巻警察署に勤めていた祖父について引っ越し、石巻に暮らしていた母達。祖母のお腹には叔父がいて、日和山という山に避難して生き延びた。祖父は小1の母を抱えて日和山に登った直後、海岸のほうに戻り津波被害者の救助にあたってしばらく帰らなかった。
そうやって災難を乗り越えて命を与えられた叔父も、30年前の医療では生き延びることが叶わなかった。

叔父が死んだ日やそれから続いた葬儀の日々、4歳だった私は「死んだのわからないよね」と大人達に言われ、大人はなんてひどい生き物なんだろうと思った。あの時と今を比べても死に関する理解に差がないくらいよくわかっていた。祖母と妻である叔母は取り乱し、祖父は哀しみを押さえて穏やかに、両親は哀しみながらも叔父の人生を肯定的に見送った。ように私には見えた。叔父が私に教えたのは「死を目の前にした人たちを見つめる」ということだった。

生前、叔父は企業に勤めながら、いずれは政治とジャーナリズムの世界で生きていこうとして、その活動に私生活を割いていた。政治や法律の勉強をして、海外志向も強く、結婚もして、スポーツもして、とても忙しい日々を送っていた。そんな叔父と大人になる過程の私は、思考も行動も似ていたから28歳になるまで親族の目が厳しかった。無茶するなよ、病気するなよ、怪我するなよ、死ぬなよという目。高校時代も大学時代も「そんなに急いて生きて死にたいの?」と聞かれた。そして、人生の節目では必ず叔父が夢に出てきて励ましてくれた。それが29歳になってどちらもぴたっと止んだ。周囲にとっても私にとっても、叔父の死は多くの影響を永く与えた。今も叔父の死んだ病院の横を通るとき、それを直視できない祖母を知っている。

昨年、母が他界したのを機に叔父のかつての友人達とつながった。その中の一人の女性は、やり取りをしているうちに私の母をやたら「おねえさん」と呼び、よく家に来ていたのがわかったので、ああそうゆうことなのかとだんだんわかった。その人が語る叔父の姿は、私が知っているのとは違う、もっと強くて熱くて戦っているような感じなので、私はまた改めて叔父に会えたような気がした。やっぱり優しいだけじゃなかったんだ。叔父はもっと私にいろいろ伝えたかっただろうけど、私は十分に大切なものをもらい、死んだあともその存在に励まされてやってきた。叔父の死とともに去った叔母も元気にどこかで暮らしているだろうか。
しあわせに、長く叔父の分まで生きて欲しい。
人はみんな、どんな経験も無駄にせず生きる糧として強くなれる気がする。

 *Writing BGM

ひこうき雲

ひこうき雲

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 叔父を思うときの一曲。